半分ずつ

f:id:mucame_cobo:20181110140910j:plain

このまえ湖北に行ったとき、お会いした方に「ほんとは教えたくないんだけどなぁ、うふふ。けどなぁ、本当に素敵な場所で」と(周囲に人もいないのに)コソコソ声で教えてくださった場所へ。お料理はとびきりで、お店の方もとびきりだった。

メニューにはひとつしか書いていなかったけれど、季節のご飯を選べると言われ「う〜ん、どっちも食べたくなりますね。ふふふ」と言いながら選びました。するとお料理が出てきたときに「店長にずいぶん迷われていると伝えると、半分ずつどうぞということです」って。わーい!色のコントラストも美しければ、味も雑味がなくて素材の味がしっかりしていて思わずバクバク食べたくなりました。けれど気を取りなおして味わったのでした。奥にある天ぷらも、その奥にある新そばも口に入れたとたん。噛み締める。どのときも美味しい。「からだ、元気になるよ」と食べ物が主張しているようだった。

土地のこと*1や、地元で採れたものばかりを使っておられること、近くに養鶏所があることなど時折伺いながらいただいたのだけれど、さいごは店長からのサービスですとデザートまで出してくださった。うーん、恐縮。けれど美味しくいただきまーす。

お店を出るとき、店長さんが出ていらして美味しかったこととお礼を述べると、気さくになんでも教えてくださる方で、食材も料理も人が喜ぶことも大好きなんだと伝わってきました。作ることと人柄が直結した気持ちの良い人。このお店のために湖北に行きたいくらい大好きになりました。たしかに教えたくないんだけど、うう〜、教えたい!という気持ちがわかる。

むかし、まだ10代前後や前半の頃。私はお地蔵さまのような時期がありました。やたら気軽にお供えされるというか。ひとりで神社やお寺なんかに行くと*2知らない方に非常に親切にされたものです。電車賃さえ持っていたら(もしかしたら持っていなくても)お腹をすかせずに1日を楽しく終えることができました。そしてその行為を私はあたりまえのように受け取っていたものです。

だんだんとお地蔵さま状態は去っていったけれど、ちっとも去らない人が身近にいた。それは祖母。人に与えることも大好きだったけれど、なぜかいろんなお店で驚くようなもてなしを受ける人でした。

それははじめてのお店、慣れたお店、一切関係ありません。ほかの人と何が違うんだろうと思って観察していたけれど、ちっともわからなかったのも不思議です。お喋りでもなかったし、気の利いたことも言わなければ、口に合わないものはそうだとハッキリ言っていた。マナーだって身につけていません。どちらかと言えば外出先ではムスッとした感じでもありました。そうなのにお店の方にふんだんに愛されていました。理由をお店の方に伺っても、おそらくご本人たちもわからないような感じでした。思わずしたくなったという雰囲気だったのです。祖母以外はみんな狐につままれたような気分だったかもしれない。

こういうのを愛嬌って言うんでしょうか、わからない。愛嬌ってなんでしょう。考えれば考えるほどわかりません。お地蔵さまは子どもの味方だけれど、お地蔵にも愛嬌があるのでしょうか。

*1:舗装されるまえの昔の道がどのようになっていたか。すごく面白い。

*2:御朱印ブームとかちっともなかったというのもあって