昔のプリン

昔ながらの喫茶店で昔っぽいプリンを食べました。店員さんのお洋服が可愛くて、一緒にいた友達が「かわいい、かわいい。ぜんぶかわいい」と連発していた。

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友達とは7、8年ぶり?いつから会ってないんだろう?ひさびさの再会と「こんな再会もあるんだねぇ」とビックリな…きょうだった。再会した瞬間、彼女の目が潤みだして「え〜、泣いてる?泣く?泣くの?あはは、相手はわたしやで〜。どーしたん!」でありました。

ウルウル再会でしたが、我々はお互いに遠目には知っていて、ときどき軽く挨拶をして、けれど深く話すこともなければ、聞くこともありませんでした。お互いの住んでいるところも知らなかった*1し電話番号もきょうはじめて知った。

だけれども共通の友達や知人が何人かいて、ごくたまに間接的ではあるけれど彼女の状況は聞いていたのです。頑張っていて、私とは違う場所で生きて、いつか接点があるんだろうかないんだろうか…違っても応援して、いつか再会することがあったら「お互いにいろいろあったね」と話せるように私もいろいろを頑張らないとと思っていました。

それが思わぬことがきっかけで再会することになり…ご飯を食べたりおやつを食べながらゆっくり話すなんてはじめて。笑うやらビックリするやら。もちろん年齢も生まれ育った環境も、とにかくなんにも知らないことをお互いに確認もしたのでした。「はじめまして」と挨拶してもいいくらいのレベルだった!!

つくづく。本当につくづく実感して反省したことがありました。間接的に聞いてたってちっともまったくわからないことがあるのです。むしろ知ったような気になっているのがよくない場合がある。本人から話を聞いたらまったく(本当にまったく)情報が違ったり、解釈や見ていた景色が違っていることがある。けれども「そうらしいよ」とか「なんかよくわかんないけど、そうなんだって」が一人歩きをして、肝心の当事者の考えを覆い隠して深く傷つけてしまうようなことがある。しかもそれが「彼女のことを思って」という言葉や、親切心から出たように見える態度が本人を不本意な形で追い詰め、それを聞いた周囲も悪意なく不用意に色眼鏡をかけている場合だってあるのです。

それを知りました。知るというよりは痛感してショックだった。わたしはそういうことに対して出来うるかぎり注意しているつもりでした。けれどわかっていなかった。たとえ出来うるかぎり注意していても足りないことだってあるのです。自分のなかにある傲慢さを感じて落ち込みます。

彼女と再会できてよかったです。ヘンなはなしだけれど、とても楽しい時間でした。プリンもお昼も美味しかったし、可愛かったし、けど暑かったなぁ!

 

*1:いまも住所知らない