赤飯まんじゅう

昨年はじめて食べて好きになった赤飯まんじゅう

毎年、成人式のときに3日ほどしかお店に並びません。今年は寝込んでいたので残念に思っていたのだけれど、近所のお祭りに合わせて2日間(とっても控えめに)販売されるとのことで予約ゲットしました。お赤飯に巻き寿司、茶碗蒸しをいただいたお祭りです。お赤飯。巻き寿司。茶碗蒸し。すっごくお祝いのご馳走という気分。

どれもとても手間がかかるお料理で、家の人が季節の行事やいいことがあった時、家族やお客さまのために奮闘していた姿が目に浮かびます。そのひとつひとつがお祝いでした。

食い意地が張っているというのはモチロンですが、自分がお祝いの品を選んだり作ったりしていると、時の流れと何かに対しての感謝を感じます。しみじみ「ご飯っておいしーな」と思いました。この頃、よく思う。

古い風習や習慣、約束事をたっぷりたっぷり抱えきれないほどに抱えている家に生まれ育ったことで一番残念だったことが、ご飯でした。お米を大切にして、主食はもちろんお米で、なにかあれば様々な形のご飯が出てきます。神棚や仏様にお供えするご飯を用意することには、いまでもなんだか特別な気持ちがあります。

そうであるのに私はご飯、とくに白米が好きじゃなかったので食べることが苦痛でした。食べられなくてよく泣いていたほど*1です。みんなが美味しそうに食べている姿が不思議でならなかったし、また反対に大人たちは私のご飯嫌いが不思議で食べさせることに随分苦労しただろうなぁ…と思います。

お米の収穫や脱穀風景、お米自体を眺めることは大好きで、必要以上に見学をしていたと思う*2のだけれど、食べることとはなかなか結びつかなかったです。

けれども年々好きになりつつある。とくに体や気分が下火のときはご飯がよいです。お米を使ったお料理の本は眺めているだけで華やかな気持ちになる。書いていて思いますが、もち米は昔から大好きでした。毎日もち米だったらいいのに!と思いながら食べていたので、ラオスに行ったときは夢見た世界が目の前に広がっていたのでした。けれど、もち米はすぐにお腹が膨れるから思ったようには食べられなくなっていた。これも時が流れていることを実感する出来事。

*1:そして結局食べなかった。

*2:家の近くに田んぼがあって、大きな脱穀や精米の倉庫のようなものもあって、何故かしょっちゅう行っていました。お米といえば「調理するまで」というイメージがあります。