同化

写真はうちのカメ☆風雨です。ベランダにはポツポツと植木鉢というか、土を詰めた鉢を置いています。小さいの大きいの浅いの深いの。夏場はニホンイシガメの女子たちが掘り返したり、埋め戻したり、ジッとする空間になります。土にまみれた甲羅と同化、擬態?しています。ときどき「どこじゃ〜?いないなぁ〜?」と探すと鉢に半身を埋めてジッとこちらを見ていたり。
きょうはツライ一日でした。頑張らないとな!と思います。そして人の気持ちに慰められる一日でもありました。頑張らないとな!
私は色んなこと*1が知りたくて、さまざまな形の出会いを面白く楽しいと思っています*2。その面白く楽しい気持ちの側面には、仄暗い気持ちも寄り添っていたりします。
小さい頃から自分が無力であることを痛感することがイヤでした。私はとびきり無力な子供でもありました*3。じんわり涙ぐんでも、メソメソ泣いても、歯を食いしばっても、ぼんやりしても、何をしても気が済まないほど残念だと感じるばかりでした。今だって大抵のことはそうかもしれません。
「痛感する時」というのは、その無力さとセットのように残念だったり悔しかったり「どうにかなったかもしれない。どうにかできたかもしれない」と強く後悔する気持ちが付いてくるのです。いつまでも、いつまでも、忘れることなく。
そういう気持ちになるとき、いつも「同じような形で再び無力であることを痛感したくない!」と思ってしまいます。その延長線上には誰かや自分が困ったときに知恵なり行動なりで力になりたいという、傲慢で、けれどもすがるような感情が渦巻いているようです。そればかりが理由ではないけれど、そうであるから私は色んなことと色んな形で出会って世界を広げてみたい*4
きょう感じた(いまも感じている)無力感は言葉でいいあらわすことができません。むかし省子*5に「めぐみちゃんは喜怒哀楽の怒の人だよね〜」と言われたことを思い出しました。いま、心の底から省子は正しかったと感じる。私は「怒」だと思う。無力であることを前に怒っている。頭をクルクル回して考えたり、連絡を取ったり、表面上は冷静に動いているけれど、奥底で激しく怒っており、それを持て余している。私自身に怒ってる。
はやく通りすぎればいいと思う。

*1:といっても、知りたくないことも多いけれど。

*2:もちろん面白くなくて楽しくないことだってある。

*3:愛すべき無力さもあれば、責められたり冷ややかな目で見られるような無力さも持っていました。

*4:…本質的には一人の世界が大好きで引きこもりだけれども。

*5:元同居人