伝えること

写真は出店(でみせ)の「お化け屋敷」。私が小さいころから西宮神社のお祭りに出ています☆☆モノノケ市のみんなが大喜びしそう。夜はもっと雰囲気があるのでした。冬でもおばけ、モノノケじゃい!
一昨日、11日に2人の方から手紙が届きました。メールやSkypeや電話の時代?に1日に2通も(案内や招待状や品物ではない、ただただ便箋に文字がぎっしり書いてある手紙)が届くのって嬉しいです。さらには差出人を見ただけで嬉しくなるほど、お二人共に私にとって心から大切な人。年賀状ではなくお手紙をくださいました。一方は私の年齢の半分ほど。もう一方は私の年齢の倍(まではゆかないけれど)ほど生きておられる方。
どちらの手紙もサッと目を通しただけで、なんとも言葉にできない気持ちになり……すぐに仕舞ってしまいました。そして、きょうあらためてじっくり読んでみたのでした。
私はだいたいいつも『わたしってラッキー。ちょう人の出会いに恵まれてる☆』と思いながらヘラッと生活しているのだけれど、ヘラッとしていられないほどのことが訪れることもあるのです。
「感謝してもし足りない。」なんていう言い方がありますね。その言い方のはじまりは(逆説的ではあるけれど)そういう言い方ではとうてい追いつかない。言葉にしたら一番大切な何かがこぼれ落ちそうな。けれども言葉にしたい気持ち。などの重層的な感情がその表現を生んだのではないでしょうか。
かける言葉がない。という表現もそうなのかもしれませんね。静かに目を瞑って頭を振るくらいしか出来ない。無言であることが一番雄弁に気持ちを語る。けれども目の前の人にどうにか、自分の中にあるなにか。を言葉で伝えたい…たとえば励ましたい。応援したい。慰めたい。共有したい。ひとつ言えば他の気持ちを捨てなくてはいけないけれど、それでも言わずにはいられない…けれども、本当の本当はかける言葉がみつからない。
ひとはそういう時、どういう言葉を生むのでしょう。へんな話だけれども、こういうシーンであればあるほど、そうだからこそ、正直な気持ちを言葉に乗せることは大変むつかしいのではないかと思います。とくに相手がいる場合。目の前の人を傷つけたくない。とか、この人が明るい気持ちになるように。とか、私がどうにかしてあげられるんじゃないだろうか。とか、へんな気遣いが邪魔をして、伝えたいことをうやむやにしてしまう。だからこそ余計に言葉が出なかったり、あとあと『そういうことが言いたかったんじゃないんだよな』と後悔したり。
私はいつも「ギリギリまで言葉にしてみたい」と思っているし、自分なりに試みてもいるので余計そう考えがちなのかもしれないけれど……いただいた手紙を読んで思ったことです。正直であることとはどういうことかということや、人に伝えること。誰かと向合うこと。
これだ!という答えはでないけれども、人に対しても自分に対しても雑な生き方をしていたら正直ではいられないのかもしれない。雑味が多いと自分にも人にも本当に伝えたいことを伝えられないし、そもそも気づけない。
年始から宝物のようなお手紙をいただいた。というお話なのですけれどね。11日は西宮神社の「のこり福」。本当にのこり福が訪れた気分☆☆