なにかに感謝すること

22日に更新。
2日経っているので私の感想?ブログにアップする内容の臨場感?が薄まっているのかもしれないけれど、大正時代の建造物内で開催されたヴァイオリンのコンサートに行ってきました*1ブラームスのヴァイオリンソナタ全曲*2☆とシェーンベルクのヴァイオリンのためのピアノ伴奏付き『幻想曲』。
私は「ちょうクラシック初心者(聴くほう)」なのだけれど、とっても楽しみに予習?や、いろんなことを感じたり考えたりしながら今日を楽しみにしていたのです。聴衆者のひとりひとりが思っていることかもしれないし、傲慢な考え方だと思いつつ『ある面において私は一番深く今回の演奏を理解できるとおもう』なんて考えるときもあったりして。それくらいたのしみにしていたし、聴く側のタイミングも合っていたと思う。
なにかに感謝するって、どういうことなのかな?と思いました。聴くまえも、聴いている最中も、いまも。そしてこれからも考える。これから、なにかに感謝することについて考えるたびに今回の演奏や空間を思い出す。
いろんな気持ちが私のなかにあるのだけれど「『こんな世界もあるんだよ、ほら』と私に見せてくれて、ほんとうにありがとう」という感情が一番大きいのかも。「見せる(魅せる)」というよりは「差しだす」という言葉のほうがしっくりくる。演奏者のたましいを何かに差しだしている。それを見せてもらえたんだと思う。
こんなこと、そうそうない(と思う)。そして、こういう感情はどうしてこんなに切ないんだろうと思う。わかり合えること、わかり合えないこと、わかり合いたいという気持ち。手を伸ばし続けること。ひとりということ。なにに繋がってるんだろうか。
曲のひとつひとつに対する感想は漠然と、けれどしっかりあるんだけれど…それは私のなかで成熟させてみたい。
写真はつい先日私がテストで作った版画作品。はじめて銅版画と水性木版を組合せたもの。銅版画の油性絵具と水性木版の水性絵具。版自体も金属と木。絵画や版画という根本は同じもののはずだけれど、私にはまったく違うも、近くて遠いものに感じます。実際に銅版画をやってみてその感覚は強まるばかり。
そして私は水性木版に魅了され、そこを突き進んでいるのだ。銅版画をやってみて、私がしたいことが明瞭に立上がることや追いつめられそうな気持ちになることもあり、刺激的といえば刺激的。途方に暮れるといえば途方に暮れ、無力や脱力を感じることのほうが全然多い気がする。ときどき一瞬の晴れ間を見ることがあっても、それはそういう話。
写真もイマイチだし、それ以前にぜんぜんお話にならないレベルで作品にもなっていないけれど…雨と儚い(けれどしっかりとした)陽の光を出せたらなぁ…なんて思いながら作った*3のでした。あとから気づいたのだけれど、油性絵具をつかう銅版画で雨(水)。墨をつかう水性木版で陽(つよいもの)を表現しようとしていたのでした。もっとやらないと。
ぜんぜん知らなかったのだけれど、ブラームスのヴァイオリンソナタ第1番は通称「雨の歌」。私自身がここのところ(版画作りにおいて)雨を意識していたのも、今回のコンサートを鑑賞するベストタイミングにきていたんだと思いたい。

*1:演奏者は中島慎子さん。パートナーは加藤洋之さん。

*2:3曲しか存在しておりません☆

*3:モチーフは「すっぽん」なのでした。カメ類のすっぽんでーす☆