ぶーん

蜂……ですかね。トンボではない。と思う。

奥明日香でやっている「かかし祭り」の展示作品。蜂かかしです☆☆毎年お題が与えられ、それに沿ってかかしが制作されるそう。今年のお題は「田のかみさま。いきもの。」だったかな。お題によって力作ぞろいの年もあれば、苦労のあとがにじみ出る作品が多い年もあるそーです。
お題に沿って「かかし」を作らないといけないのだから、そりゃあ難しそう!見ている方はのんびり笑いながら田んぼの間を歩けるのだから楽しいばかり。
きょうは版画友達と作品の受渡しをしたのだけれど…ここ2週間ほど友達と私は(版木をバトンタッチしながら)同じ版を刷っていました。友達が25枚。私が24枚担当☆
いざ出来上がったものを見比べると……絵柄も色も一緒なのだけれど、まるで違う作品のようです。つくづく思いました……摺りにはどうしようもなく自分が出る。
上手い下手。得手不得手。そういうことではない所で「自分を出せる」こともあれば「その人が出てしまう*1」こともある。つくづく版画*2というものは、絵を考える作業。版に落とし込んでゆく作業。彫る作業。刷る作業。紙を選ぶ作業。これらのひとつひとつに自分を乗せてゆくものなのです。
それらの作業のなかで、友達も私も摺ることに(おそらく最も*3)こだわりを見いだした者同士なので、よけいに違いが出たのだと思ったのでした。
ちょっと(いや、とっても。かなり。すごーく。)ショックだったし、幸せな気持ちになりました。見くらべてみるとわかる。版画作品(しかも摺りだけ)を通してわかる。友達の素敵なところ。私が「いいなぁ、この人みたいな生き方をしたいなぁ」と敬愛している部分。ある部分の摺りにちゃーんと過不足なく表現されている。それに対して私の摺りは届いていない(というかまったく別物!)。おそらくその部分は私にはないもので、友達の摺りには一生届かない。相当努力しても努力したモノにはなるけれど、届くようになるのとは違う。歩いている道も違えば、心動かされる風景も違う。だからこそ敬愛して、憧れるたぐいの素敵さ。共感や共鳴ではない魅力。
と思いながら眺めていたら、友達が面白いことを言いました。「この部分とか、むかめさんやなぁ…と思う。僕にはできひんなぁ。僕とむかめさんの年とかパワーが違うっていうのもあるかもしれへんけど、そんなんじゃなくて僕はこういう摺りはできない。」………その部分は摺るときに『ここは(一番の見せ場として)頑張りたい。』と思いながら、丁寧に。けれどかなり冒険して摺ったところでした。課題もいっぱい残ったけれど。
伝わるものなんだな……しかも、こういう伝わり方がある。同じ水性木版をやっていても、こんな受止め方ができる存在って稀なのかもしれないと思いました。技術云々を度外視して摺りの話ができるのは……とても困難なことだと思うから。
お茶を飲みながら、あーだこーだ喋ったけれど、合間、合間に2人して何度も「同じ版*4を摺る機会に恵まれて……ほんまよかった。大変やったけど、こんな幸せなこともない。」と言い合ったのでした。端から見たらバカみたいに何度も何度も。けれど、こんなこと一生に一度あるかないかの出来事なんです。なにかあるごとに「いやぁ、よかったよねぇ!(ほんま大変やったけど)」って言続けることでしょう。
八百万の神様のなかに「摺りの神様」がいてくれたらいいと思う。

*1:おそらくだけど、これって技術があればあるほど(イヤな意味での雑味がなくなるので)明確になります。

*2:すくなくとも水性木版は。

*3:少なくとも私は絵作りと摺りです。

*4:しかも友達の版でも私の版でもない、違う人の版